-----キリスト最後の12時間
映画を観終えたとき、しばらくは誰とも話したくないだろう。
たった今目撃したことを、ちゃんと整理して心に正しくしまっておこう。
そう思うに違いない。
文字通りこの映画は、キリストが十字架にかけられるまでの最後の12時間を描いたものだ。約2時間の上映時間の殆どが、そのものずばり「受難」の場面である。もちろん、躍動するイエスの姿や回想シーンなどが絶妙なタイミングで挿入されている。
しかしこの映画を鑑賞し終わったとき、人々の記憶に焼き付くものは、間違いなく受難の悲惨さだろう。
今から約2000年前、イエスは十字架刑に処せられた・・・そんな知識だけなら、この日本でも多くの人が持っているだろう。
しかし、この映画は、それがどれほど凄惨な出来事であったかを描き出しているのだ。この点でパッションは、今まで製作されてきた、どの「聖書モノ」映画とも異なる作品だと言える。
今まで、福音書の記述をなるべくそのまま映像にしようとしたものは数々創られてきた。それらは聖書をビジュアル的に理解するという点では大きな意味を持っていただろう。しかしキリスト教徒でない日本人には、ただ間延びして長いだけの「教材ビデオ」的にしか受け取られなかった面があることは否めない。
しかしこの映画はそうではない。メル・ギブソンは、聖書の世界を映像で紹介しようとか、イエスの活動を映画化しようなどということに重きをおいていない。
この作品が語ることはただ一つ。目を覆いたくなるようなキリストの「受難」という事実そのものである。その意味において、これほどまでにタイトルと内容が一致している作品もまた珍しい。
もちろん、聖書を知らない日本人が、この物語の背景や、登場人物についてなどを理解するとはとても思えない。一体なんのことかさっぱり分からないという場面が多いかもしれない。
しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、聖書を知らないだれが観ても、「受難」とはどのようなものであったかを知ることになるということだ。そして必ずやこう思うに違いない。
「なんて惨い・・・どうして、こんなことが・・」
これこそ、メルが人々に問うものである。十字架とは何だったのか。これを目撃した一人一人は、その意味について答えを探ろうとせざるをない。
それほどに衝撃的な作品だ。
-----伝えられて来なかった事実
2月25日の米国での公開初日、映画を観ていた年配の夫人がショック死したというニュースが飛び込んできた。
そしてまた最近、ブラジル人牧師が鑑賞中に心臓発作で亡くなった。
こんな言い方はふさわしくないかもしれないし、ご遺族の方には失礼極まりないことだろう。それは重々承知している。しかしそれでも言わせてもらうとするなら、この映画における受難のシーンは、十字架の悲惨さを知っているはずの牧師の想像をも超えたほどのものだったと言うことだろう。もちろん、なくなった方のご冥福を祈るのは言うまでもない。
米国においては、バイオレンスシーンの多さを批判する人もいる。しかしそれは、他でもなく俗に言うキリスト教が、キリストの受難を正しく伝えてこなかったという動かしがたい事実を物語るものだ。
教義としての受難についてなら、多くの宣教者たちが手を変え品を変え、語り継いできたであろう。しかし私が言いたいのは「事実」としての受難についてである。それがどのようなものであったのかということについて、一体どれほどの人が正しく認識していたというのだろう。
どのキリストモノの映画でも、十字架のシーンは控え目で、太い釘が生身の体を打ち抜く瞬間は映し出されない。本来はこうだったであろうという事実よりも、何倍も軽く描かれている。
観るものに配慮した映像・・・そう言うこともできる。しかしだから、受難の重みはちっとも伝わらなかったのだ。
-----十字架しか知らないと決めた男たち
思えば、世界の歴史に絶大な影響を与えたキリストの教え・・古代史の中でそのメッセージを最も広範囲に伝えた男と言えばキリストの使徒パウロだろう。
彼は、エルサレムで宗教教育を受けたエリートで、ユダヤ教の慣習や律法について非常に詳しかった。ヘブル語とギリシャ語を自由に操るバイリンガルでローマ市民権を持っていた。ユダヤ最高法院サンヘドリンの議員でもあった。
彼が新約聖書の後半、書簡と呼ばれれるものの大半を記した人物だ。
しかしこの有能な識者パウロはこう宣言した。
「私は十字架につけられたキリスト以外は知らないことに決めました」
彼はどこででも十字架につけられたイエスを伝えたのだ。
気が狂っていると罵倒されても、脅かしを受けても、彼は議論をしたり、反対者を論破したりするよりも、十字架だけを語ると言ったのだ。
ここに彼のパッション(情熱)があった。そしてこれこそ語り継がれなければならないはずの真実であった。それにも拘わらず、このメッセージは色あせてしまっていた。
しかし、2000年のときを経て、メル・ギブソンが私財を投げ打ち、俳優生命の全てをかけて薄められた十字架の真実を現代に甦らせた。
この映画を制作したことによって、メルはアメリカのユダヤ系団体からの総攻撃を受け、徹底的にバッシングされた。ユダヤ系の資本がうずまくハリウッドでは再起不能となる可能性も否めない。
それでも彼は公開を中止せず、今やこの映画は空前のヒットとなっている。
ここに、パウロの情熱が薄められてはならないと信じる男の姿を見る。さすがにブレイブハートでアカデミー賞を総なめにしたメル・ギブソンである。
個人的な信念、あるいは信仰においても彼は勇敢な心(ブレイブハート)の持ち主であることを証明したのだ。
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