イエスを殺したのは誰なのか?
それはユダヤ人の罪なのか?それともローマ人なのか?
キリスト殺しとは誰のことか?
果たして聖書はこの疑問に何と答えるのだろうか。

これについて、他でもないキリスト自身が、まるで未来を見透かしていたかのように、はっきりとこう宣言している。

 「わたしが自分のいのちを再び得るために
  自分のいのちを捨てるからこそ、
  父はわたしを愛してくださいます。
  だれも、わたしからいのちを取った者はいません。
  わたしが自分からいのちを捨てるのです。
  わたしには、それを捨てる権威があり、
  それをもう一度得る権威があります。
  わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

         -----ヨハネの福音書10章17〜18節

なんと驚くべき宣言であろうか。
イエスは命を捨てる権威と、それを再び取り戻す権威とを持っているというのである。それを証明するために十字架と復活はあった。
つまり、イエスが人間の限界を越えた存在、メシアであることは十字架と復活によって証明されるということだ。これを信じるか信じないかは各人の選択だ。

しかし、一つだけはっきりしていることがある。
それは、イエスの言葉によれば、彼は自ら命を捨てたのであって、誰もキリスト殺しとはなり得ないということだ。

確かに、十字架の上でイエスは「我が霊を御手に委ねます」と叫び息絶えた。死はイエスの意志の中でコントロールされていたことが福音書の記録するところである。
イエスを抹殺しようと陰謀を企てたのはユダヤ議会である。その企みはまんまと成功した。イエスの裁判を司ったのはローマ総督だ。彼がその権限によって十字架刑を公に決定した。
イエスをむち打ったのも、実際にくぎ付けにしたのもローマ兵だ。

しかし、どの瞬間もイエスは生きていた。イエスの命を奪ったものは誰もいない。イエスは自らそれを捨てたのである。イエスは自らの号令のもと最後の息を引き取ったのだ。
そして、復活により公にメシアであることが示された。

イエスと呼ばれた人物が、命を司る権威を持っている存在なのだと告白することこそ、キリスト教信仰の本質である。
だとするなら、「キリスト殺し」などという汚名をユダヤ人に着せたこと自体が、悲劇的倒錯であり、著しく非聖書的であると言うことだ。

つまり、実は、ユダヤ教徒たちが新約聖書を嫌う必要はどこにもないのだ。
ユダヤ人が悪く描かれようが何であろうが、イエスの言葉によって、ユダヤ人はキリスト殺しの疑惑から解放されるのである。

そしてパッションでも、イエスの言葉ははっきりと響く。

「わたしには、それを捨てる権威があり、
 それをもう一度得る権威があります」


しかし、ユダヤ教徒たちはイエスにそのような権威があったことを認めていない。もし、イスラエルを訪れるチャンスがあるなら、ユダヤ人たちに聞いてみるといい。
「どうしてイエスをメシアだと信じないのですか?」
すると彼らは決まってこう答える。
「イエスは自分を神の子だと主張したからだ」
「では、どのような存在なら信じるのですか?」
「それは、政治家だ。人間だ」
ところが、イエスをただの人に引き下げることは、「キリスト殺し」という汚名を浮上せるというパラドックスを生む。

ユダヤ人たちが、このジレンマから完全に解放されるためには、イエスが自ら語ったとおりの存在であったと認める以外に道はない。
しかしそれは、ユダヤ教の存在に関わる重大事である。


このページのトップにもどる   

このサイトはファンによる映画推進を目的としたもので著作権の侵害及び製作者側の利益を目的としたものではありません。
この映画の作品の権利、画像の著作権は。それぞれの版権元に、また全てのテキストの著作権は石井希尚に帰属します。