#5:黒人たちが握ったもの


ゴスペルと言えば、数年前から日本で空前のブームとなり、いたるところでクワイアやワークショップが行われている。
近所の楽器屋さんが主催しているものから、教会がやっているものまでさまざまだ。

しかし、ゴスペルのルーツを知って歌っている人たちは非常に少ない。それは、かつて、黒人たちが絶望的な奴隷生活の中で握りしめたグッドニュースであり、十字架のことだ。すなわちゴスペルのルーツとは、十字架の言葉なのである。

黒人たちは、絶望的な奴隷生活を強いられていた。
来る日も来る日も重労働を課せられ、仲間や愛する人々が目の前で乱暴され、殺されていった。彼らはボロ雑巾にように扱われ、彼らを守ってくれるものは誰もいなかった。
もし白人のご主人様に刃向かおうものなら、彼らには厳しい仕打ちがまっていた。しかし白人が彼らを殺しても罪には問われなかった。なぜなら彼らは人ではなく労働力だったからだ。

人権も守られず、誰も守ってくれない…そんな絶望が毎日続く…
そんな中で、あなただったら、どんな歌を歌うだろう?
悲しみや恨み節…そんなところが関の山だろう。
しかし黒人たちは、この絶望の中で希望を歌ったのだ。
それは彼らが永遠に変ることがない神の愛と、神の国の希望を堅く握ったからだった。

「白人たちは私たちを殺すことができる。しかし神の愛は私たちを取り囲む。
 誰も神の愛から、私たちを引き離すことはできない。
 十字架の愛で、私たちは愛されているのだ・・・」

彼らは十字架の上で表された神の愛を堅く握りしめたのだ。
そして絶望の先にある祝福に目を留めた。
それは死線を超えた崇高なビジョンである。彼らは、聖書が約束する「神の国」を信じたのだ。
肉体の命が滅んでも、魂は主イエスにいざなわれ永遠の神の国へといたる…これが彼らが握った希望である。
この希望が、絶望の中にある奴隷たちをして、希望の歌を歌わせる原動力となったのだ。

アウシュビッツの強制収容所から生きて生還したユダヤ人がこう言った。
「あそこから生きて出て来た者は、最後まで希望を捨てなかった者だけだ」

どんなときでも、希望を失わない人は倒れることがない。
確かに、私は日々カウンセリングという仕事を通して、人の心と対面している中で同じことを思う。
愛しあって結婚した果てに、悲しい別離の道を選ぶ人たちは、その状況に留まることに希望を見いだせなくなったからだ。
明日を生きる希望を失った人は自らの命をさえ絶つ。
人は希望を信じられなくなったとき、生きる力を失うのだ。

日本でゴスペルがこれほどまでに流行る理由は何だろう?
流行というのは多くの人たちの心の共鳴板に響いた結果だ。
ゴスペルの持つ力は、聖書を知らない多くの日本人の心に響いたということだ。それは他でもなく、今ほど日本人が希望を必要としているときはないとうことのあらわれではなないだろうか。

(つづく)