|マグダラのマリヤとイエスとの出会い|

映画の中には、悲惨な受難の場面の合間に、数々の回想シーンが挿入される。
その一つがマグダラのマリヤとイエスとの出会いの場面だ。

イエスが地面に指で線を引く…
石を投げ捨てる男たち…
ボロボロになったマリヤは、地面にはいつくばって、必死で手を伸ばし、イエスの足に触れようとする…

よっぽどボーッとしていない限り、誰もがこれが登場人物の一人であるマグダラのマリヤだとわかる。おそらくイエスと出会った場面だろうと連想するところまではいくだろう。

しかし聖書を知らなければ、マリヤが男たちにいじめられているのをイエスが助けたのかな?程度にしか理解されないだろう。あるいは、全く意味がわからないと思う人も多いかもしれない。
いや実際、アメリカ在住の日本人の友人が、この場面が何なのか全く分からなかったとぼやいていた。

この場面は、アイコンプロダクションが制作した宣伝用のビデオクリップでも使用されていることもあって、印象に残っているだけに、理解できないことが残念だったらしい。そこで、映画を見る前に、この場面は一体なんなのかを理解しておくことをお勧めする。



-----姦淫の現場で捕えられた女とは

映画で挿入される場面は、ヨハネの福音書8章に記録されている「姦淫の現場で捕えられた女」事件だ。
この映画では、「姦淫の現場で捕えられた女」とマグダラのマリヤが同一人物であるという設定になっている。

聖書的に、マリヤがこの女性であったことを裏付ける根拠を発見することはできないのだが、そうであったかもしれないということはできる。しかしマグダラのマリヤは、「最低」の人生からイエスによって回復させられ、その喜びからイエスに付き従う者に変えられた。この点においては、「姦淫の現場で捕えられた女」と共通する。
彼女もまた人生の「最低」のときにイエスに助けられた者だからだ。

だからこの「姦淫の現場で捕えられた女」のことを理解しておくだけで、映画に登場するマグダラのマリヤをより理解できるし、彼女の行動の背後にどのような体験が横たわっていたのかを知ることができる。
まずはこの女が登場する場面を聖書から読んでみよう。

-----ヨハネの福音書8章1節〜11節(新改訳聖書)

イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。

「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、
 最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

イエスは身を起こして、その女に言われた。

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。
 あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

彼女は言った。

「だれもいません。」

そこで、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
 今からは決して罪を犯してはなりません。」


-----不倫は死刑

ある日事件は起こった。舞台はエルサレムの神殿の中庭だ。律法学者とパリサイ人が、群衆の面前で、姦淫の現場で捕まえてきた女を引き出して、イエスに迫る。

「モーセはこういう女を石打ちにしろと言っているが、
 おまえは何と言うのだ!」
 
さて、この事件は、当時のユダヤ社会における律法の占める位置を理解しなければ意味が通じない。
律法というのは、ユダヤ民族のヒーローであるモーセが神からさずかり、民に与えたもので、その根本はかの有名な「十戒」である。

その十戒をもとに、そこから派生した民法や商法などを成文化してまとめたものが「律法」だ。
ユダヤ民族はこの律法の規範に則って生きることを義務づけられた。なぜならそれこそが神との間で交わされた「契約」だったからだ。ちなみにこの契約のことを「旧約(古い契約)」という。
この契約は、イスラエルの民が律法の掟に従って生きることを条件に成立したもので、契約内容を守らなければ「罰がある」というものだ。

パリサイ人が「モーセの律法によると…」と持ち出したのはこのことだ。確かに、この律法によると、「姦淫」すなわち今でいう不倫は「石打ちの刑」に処せられることになっていた。

石打ちというのは、死ぬまで石を投げつけるという死刑の方法で、今でもイスラム圏では残っている。現代の日本でこの律法が適応されたら、一体どれだけの人が死ななければならないだろう。


-----事件の首謀者

この事件にからんでいるのは「パリサイ人」と「律法学者」だとヨハネは書いている。パリサイ人とは、ユダヤ教三大宗派の一つ「パリサイ派」に属する人のことを言う。

この宗派はモーセの律法をことごとく守り行うことに徹底的にこだわる立場で、全てのユダヤ人がたった一日でも、律法の全部を完全に行うことができたら、その日こそ「メシア来臨の日」だと信じていた。
つまり彼らにとっては、律法を守ることこそ全てであり最高の善なのだ。

だから律法を守らない者は軽蔑されるべきであり、それらの人々は厳しく罰せられなければならなかった。彼らの信条は歪んだ律法主義へと発展し、彼らの熱意は、神の愛や恵みよりも、ただひたすらに律法を守ることのみに集中した。

イエスに最も激しく敵対したのは、このパリサイ派に属する人々だ。なぜならイエスが、彼らの言い伝えを公然と無視したからだ。

そして、彼らと常にパッケージになって登場するのが「律法学者」である。
彼らは法律の専門家だ。今でいう弁護士のようなもので、数あるモーセの律法の解釈を仕事にしていた。

彼ら律法の専門家にとって、イエスのような「大工の息子」が偉そうに民衆を教えているのを見るのは、この上なく腹立たしいことだった。
「我々こそ専門家だ」というプライドは、アンチ・イエス運動と同調するのに時間はかからなかった。

だから、パリサイ派と律法学者は常に一対となってイエスに攻撃をしかけてくる。この事件もその一つだった。


-----陰謀

彼女の逮捕劇は「イエスを告発する理由を得るためだった」と記録されていいる。つまりこの事件は、イエスを葬り去りたいと画策していたユダヤ教当局によって仕組まれた罠であり陰謀であったということだ。

その道具として使われてしまったのがこの哀れな女だったのだ。
彼女は白昼、多くの人々が礼拝に訪れる神殿の庭に、あられもない姿で引き出された。さらしものだ。なんという辱めであろうか。

しかしよく考えると、不倫の現場をおさえるなど、そう簡単にできることではない。石打ちという極刑が待っていることを知りながら、白昼堂々と人目につくところで男と寝るなどということがあるはずもないからだ。

だとするなら、あらかじめ怪しそうな女性を調査して、尾行し、張り込まなければならない。しかしこの事件の不審なところは、ひっとらえられてきたのが彼女一人で、男の姿はないということだ。
とすると、彼女の不倫相手はユダヤ当局と結託して、この陰謀に加わった可能性が漂う。
神の愛と恵みの代弁者であるはずのユダヤ教は、イエスという一人の男を始末するためには手段を選ばなかったのだ。

自分たちの利益のためには、本質的な問題解決などどうでもいいという欺瞞的宗教の姿がここにある。イエスが戦ったのはこのような宗教家たちだった。


-----どっちにしてもイエスが不利

彼らは叫んだ。

「モーセはこのような女を石打ちにしろと命じている。
 おまえはなんと言うのだ!」

これこそ彼らの罠だった。当時、ユダヤ議会には死刑執行の権限は与えられていなかったのだ。それはローマ政府のみが持っていた権利だった。イスラエルは主権国家ではない。あくまでもローマの法律に従わねばならないのだ。
ローマを無視するとき、それはすなわち「皇帝への反逆」を意味した。
 
もしイエスが「モーセの律法の通りこの女を石打ちにしろ!」などと言おうものなら、彼らはイエスをローマ政府に訴えることができる。反逆罪だ。

もしイエスが「この女は石打ちに値しない。無罪だ」などと言ったらどうだろう。今度はイエスをユダヤ議会に訴えることができる。モーセの律法違反だ。

イスラエルの教師たるもの、モーセの律法を無視するようなことを公言するなら、それは教師生命の終わりを意味するのに等しい。しかも、大勢の人々が礼拝のために集まっている神殿だ。
そこは、イスラエル民族にとっての心のよりどころであり、最も神聖なる場所なのだ。そのただ中に引き出された罪ある女を見て、多くの者たちが口々に彼女をののしり「汚れている!」と罵声を浴びせたに違いない。

誰がどう見ても、不倫を正当化できる根拠はないし、ましてモーセの律法を無視してまで、彼女を無罪放免にすることはできない。
周到に仕組まれた罠。どちらにしてもイエスは訴えられる運命にあったはずだった。


-----じっと黙って地面に書き続けたイエス

しかしイエスは黙ってしゃがみ、指で地面に何かを書いていた。イエスが「書いている」場面は聖書の中でここだけだ。
一体何を書いていたのだろうか…。

イエスは無言で、彼女の横に座り、ずっと地面に何かを書いている。
敵対者たちはイエスに向かって叫び続ける。

「おい、何とか言え。この女をどうするのだ。答えんか!」

しかしじっと地面に書き続けるイエス。
その行動はあまりにも普通じゃなかった。ゆえに周りにいた人々の視線はイエスにくぎ付けになった。彼らはイエスが何を言うのかをかたずを飲んで見守った。

イエスの行動は何を意味したのだろう。どうして他の場所でしたように、律法学者を遥かにしのぐ知恵の言葉によって、彼らの出鼻をくじかなかったのだろう。

一つだけはっきりしていることは、この行為のゆえに、イエスは自らを「非難される側」に追いやったということだ。何も答えないことは聖職者たちへの侮辱にあたる。敵対者はそのことそのものを非難し、さらに激しくイエスに迫る機会を得ることになったのだから。

しかしこの行動のために、本当なら彼女がたった一人で背負わなければならなかった辱めと、人々からの刺すような視線は、今やイエスの上に注がれることになったのだ。    

彼女は自分の犯した罪のための報いを受けている。
しかしイエスは、まるで彼自身が悪いことでもしたように、まるで彼女と共に捕えられた不倫相手であるかのごとく、下を向いたまま、宗教家たちからの非難をじっと耐えている。

ここにパッションがある。受難である。

イエスは人々の罪を背負うために来た。イエスの活動のすべては、神の愛を表すものだった。そのクライマックスが十字架である。しかしここにも既に、その姿がある。
彼女の罪のための辱めと報いをその身に背負っているイエスの姿がここにあるのだ。


-----ついに答えたイエス

長い沈黙を破ってついにイエスは立ち上がり言葉を発した。

「この中で罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい!」

彼はそう言うと、再びしゃがみ、地面に何かを書き続けた。すると、思慮ある年長者たちから始めて、一人また一人と去っていった。イエスの一言で、形勢は完全に逆転してしまった。

誰が「私には罪がない」などと言えるだろう。彼らの心は偽善と悪意とに満ちていた。神の律法を守るように厳しく教え、その律法によってこの女を断罪している張本人たちは、イエスのこの一言によって逆に裁かれる立場へと追いやられてしまったのだ。

常日ごろから抑圧されている民衆は、ここぞとばかりに石を投げつける宗教家を見たら、今度は彼らに怒りを露にするに違いない。律法を完全に守り行うことができる「完璧」な人間などいるわけがないと誰もが知っていたのだから。

そんな彼らに出来た唯一のことは、ただその場から去ることだけだった。


-----律法は裁き、恵みは赦す

彼女だけがその場に残された。

「誰も、あなたに石を投げなかったのか?」
「はい…」
「ならば、私もあなたを裁かない。行きなさい。
 もう罪を犯してはいけない…」

律法主義は人を裁く。しかし恵みは罪を赦す。本当なら死刑に処せられるはずだった彼女は、イエスによっていのちを得た。

イエスは神の愛を証するために地上にきた。そのクライマックスは十字架である。この物語は十字架にかかる前のイエスの受難が、かくも美しく描かれている記録である。

マグダラのマリヤがこの女と同一人物であるという設定は、この映画に関して言うなら、まさに完璧だと言うしかない。