この映画が反ユダヤ主義的だという理由で、アメリカではメディアがこぞってパッションの公開を阻止しようと攻勢をかけた。
しかしメルはそれに屈することなく公開にこぎつけ、パッションを大成功させた。

反ユダヤ主義という烙印を押されてしまうことが、アメリカ社会においてどれほど致命的な問題であるかということを知らない人にとって、この映画が辿ったコースや、現在メルが受けているプレッシャーを理解することはできないだろう。
メルのもとへは、「お前とは二度と仕事をしない!」という宣告や嫌がらせが寄せられ、ハリウッドのクラブからは入場を断られたりしている。


■迫害が生み出したユダヤパワー

アメリカにおけるユダヤ人の力は圧倒的だ。中でもとりわけ、金融やマスコミはユダヤ系パワーが本領を発揮する世界だ。

離散と迫害の歴史を辿ったユダヤ人たちは、自らが生き残る術として、知恵と力を蓄えざるを得なかったという特異な歴史を持つ。
彼らの驚くべき生命力と連帯意識が、気付けばアメリカのみならず、世界にユダヤネットワークを構築するに至った。

メディアが流す情報が、国民の思想に大きな影響を与えるのは言うまでもないことだが、ABC, CBS, NBCなどの米大手テレビ局やロイターなどの情報機関、また、タイム、ニューズウイークなどのメジャーな雑誌、そしてニューヨークタイムズやワシントンポストなど大手新聞社にいたるまで、多くの企業がユダヤ系である。
今や米国内のマスコミ界におけるユダヤ系ネットワークは計り知れない影響力を持つものとなっている。

また、米国は議会外でロビー活動が活発だ。マスコミを握っているユダヤ系ロビーストたちの影響力は、大統領選挙の行方にも影響を与えるほどに大きい。
アメリカ国内のみならず、全世界のどこででも「反ユダヤ主義」という烙印を押されることは、これら世界に広がるユダヤ系ネットワークを敵に回すことになる。
これが、ユダヤ系勢力が大きな影響力を誇るアメリカ国内で何を意味するかは想像するに難くない。

特にハリウッドスターであるメル・ギブソンにとって、俳優生命に関わる重大事だ。なぜならハリウッドこそユダヤ人パワーが作りあげた牙城だと言っても過言ではないからだ。
MGM、ワーナーブラザーズ、20世紀フォックス、パラマウント社、ユニバーサル映画など、ハリウッドの繁栄を支えているのはユダヤ系映画メジャーの存在なのだ。


■キリスト殺しという汚名

民族存亡の危機に常にさらされてきたユダヤ人にとって、ユダヤ民族全体に不利益をもたらす「共通の敵」を発見したなら、持てる力を結集して防衛網を張り巡らすことは当然のことだし、その結果として「敵」を叩くこともまた当然の行動でもある。パッションに対する強烈なバッシングは、まさにこれにつきる。アメリカで起こった現象は、ユダヤ同盟が、共通の敵に立ち向かった典型的事件だと言えるだろう。
ユダヤ人たちは、彼らの先祖たちが拒否し、磔刑に処したナザレのイエスをメシアであると認めていない。
そのイエスをメシアであると宣言するキリスト教に対して、彼らはノーを突きつけている。

しかしそんなことはどうでもいいのだ。実は異邦人(非ユダヤ人)がイエスを誰だと言うかに興味はない。彼らはイエスを認めない。その事実のみで自己完結しているからだ。

実はユダヤ人たちの気持ちを逆なでするのは新約聖書の記述なのである。新約聖書は、イエスを十字架へと追いやったのは「ユダヤ議会」であると記録している。
残虐な男であったローマ総督ピラトでさえ無実であると確信し、釈放しようと努めた人物を、ユダヤ人が十字架につけろ!と要求したのだ。
つまり、ユダヤ人がローマ人よりも残忍な人種であるように思われかねないその記録が、ユダヤ民族にとっては一大事なのだ。
なぜなら、これがユダヤ人に不名誉な「キリスト殺し」という汚名をきせる結果となり、それはユダヤ民族迫害という拭い去れない悲劇を生み出す原動力の一つとなってしまったという歴史的事実があるからだ。

もちろん、ユダヤ人に対する迫害は、たった一つの理由によって起こったという単純な図式では説明ができない。しかし不幸なことに「キリスト殺し」というレッテルが迫害の一要因になったことは紛れもない事実として、歴史に汚点を残している。



■悪く描くな!これがユダヤ側の主張

大スターが制作した映画が受難を扱っているということで、世界中のキリスト教徒が劇場に足を運ぶのは間違いない。しかもそんじょそこらの二流監督ではなく、アカデミー賞監督であり、俳優としてもあまりにも人気の高いメル・ギブソンの作品だとなれば、世界中のメルファンが映画を観ることになることは言うまでもない。

その結果、聖書の知識に明るくない人でさえ、ユダヤ人に対する否定的感情や場合によっては憎悪を抱くかもしれない。そしてそれが、ユダヤ人差別を誘発する恐れがあるかもしれない。
そんな可能性が少しでもある映画が劇場公開されては困る。
これこそメル・ギブソンバッシングが起こった理由である。

だからユダヤ人議員が反対集会を開いたときも、その議員は「キリストの十字架を求めるユダヤ人と見られる群衆の模写」に反対したのだ。
つまり、ユダヤ人が悪く見られる描き方への反発である。

ニューズウイーク誌の特集でも「どうしてユダヤ人をこんなに悪く描くのか?」と映画に批判的だった。一言で言えば「俺たちを悪く描くな!」というのがユダヤ側の主張であるというわけだ。
この映画がアラブ諸国でも大ヒットを記録し、イスラム聖職者たちが驚くほど好意的な理由は、ユダヤ人が悪く描かれているからに他ならない。
反イスラエルを唱えるアラブ諸国にとって、ユダヤ人が悪く描かれているものは大歓迎だからだ。


■悪く描き過ぎているのか?

さて、パッションはユダヤ人を悪く描き過ぎているのだろうか?
いくらユダヤ人が反発するからと言って、また、熱烈なユダヤ教徒が最も嫌う書物が新約聖書であるからと言って、聖書の記述を彼らの気に入るように書き替えるなどということはできない。
しかし映画のシナリオともなれば話は別だ。
作者としては、仮にそれが聖書の記述通りだとすれば、どんな攻撃に対しても「これは聖書にあるとおりだ」とつっぱねることができる。

しかしもし、聖書が記録していない場面やセリフが、ユダヤ人に不利なように描かれているとしたら、そこには特別な意図があったと思われても仕方がない。
パッションのシナリオにはそのような場面はあるのだろうか?
実はある。これがユダヤ人から反発を買う大きな理由の一つになっているのだ。
 

■イエス逮捕にまつわる事情

それはイエス逮捕の場面である。最後の晩餐の後、ゲツセマネの園という場所でイエスは捕縛されるのだが、この映画では、逮捕にまつわる事情が聖書と異なる。

聖書によれば、裏切り者ユダに先導されてイエスを捕えに来たのは、ユダヤ教当局から派遣された役人たちと、一隊の兵士たちだった。
一隊というのはローマ軍の単位で通常は600人の部隊を意味する。
つまり、たった一人の男イエスを捕えるために、ユダヤ教当局はローマ軍に協力を要請し、実に驚くべき数のローマ兵が逮捕に協力したということだ。
これはあくまでもユダヤ教執行部の計画であったが、確かに聖書はローマ兵が協力していた事実を記録している。

ところが、映画ではイエスの逮捕劇は、ユダヤ側の単独行動であったことになっている。イエスを大祭司邸に連行したとき、騒ぎを不信に思ったローマの隊長が「何事だ」と尋問する場面がある。しかしそこにいたおそらくユダヤ議員の一人は適当に言ってごまかす。つまりローマ軍はことの次第を全く知らないという設定になっているのだ。

ところが、早朝に総督ピラトのもとでの裁判が開かれている。通常裁判は朝早くに開かれることはなかった。しかも総督は官邸の外まで出てきて尋問を開始した。
このようなことが迅速に行われるためには、周到な準備と根回しが必要だったことは言うまでもない。
つまりローマ側の協力なしにことが進められることは、実際問題としてあり得なかったのだ。

実際の聖書の記録と異なるこの場面設定は、あえてユダヤ人を悪者に仕立て上げようとしている反ユダヤ主義的なものだという主張の正当性に一役買ってしまった結果となったと言えるだろう。


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